漱石文学散歩 その1。

今日も快晴♪
朝から我が家の前の道路、舗装工事の為地震のようです(;;)
一日おとなしく引きこもって居ようと思います。

 

さあ、旅の二日目の様子を書きますよ!

漱石の散歩道東京理科大学~

神楽坂下から外堀通りを西へ数分、東京理科大学の校舎の奥に
お目当ての建物があります☆

「東京理科大学近代科学資料館」ですが、
東京理科大学の前身・東京物理学校(創立明治14年)
この建物は、明治39年に建築された校舎を復元したものです。
坊っちゃが入学したのは開校から約20年後、明治35年頃の設定。

「物理学校の前を通り掛ったら生徒募集の広告が出ていたから、
何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。」

「席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。然し不思議なもので、
三年立ったらとうとう卒業してしまった」(坊っちゃん』

物理学校は東大理学部出身者によって設立されたという事情から、
東京帝国大学との結びつきが強く、帝大出身の漱石は『坊っちゃん』で
この学校をとりあげたのではないかと考えられています。
先を急ぐので、建物の写真だけ撮らせてもらって戻ります~

外堀沿い神楽河岸は、かつては船による荷や人の往来があったそうです。
漱石の姉たちは、ここから船で浅草の芝居見物に向かったようです。

 

さて、再び~神楽坂へ
明治27年甲武鉄道牛込駅(JR飯田橋駅)の開設で発展し、
山の手随一の繁華街として賑わったそうです。

神楽坂界隈は、漱石が子どもの頃から親しんだ地で、
漱石のさまざまな作品に登場します。
お見合いした漱石と鏡子がすれ違ったのも神楽坂でした。

昨夜見た善国寺~

日蓮宗の寺院で開基は1595年徳川家康と伝えられています
ここの毘沙門天像は、新宿区指定有形文化財に指定。
毎月5の日が縁日だそうで、東京で縁日に夜店が出るようになったのは、ここが発祥らしいです。

坊ちゃんは、昔の思い出話として赤シャツに語っています。
神楽坂の毘沙門の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っ掛けて、
しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは
今考えても惜しい といったら、赤シャツは
顎を前の方へ突き出してホホホホと笑った。」
坊っちゃん』

更に坂を上ると、左手の方角に~地蔵坂~

漱石はこの坂を通って神楽坂に遊びに行っていたらしい。

坂の中腹から神楽坂通りまでの道は、「藁店(わらだな)」とか「藁坂」
「わらだな横丁」と呼ばれる。
江戸時代には地蔵坂に町屋があり、藁を売る店が多かったことから。
『それから』や『吾輩は猫である』等の作品にここの地名が登場する。

「落語(はなし)か。落語はすきでよく牛込の和良店(わらだな)
聞きに出かけたもんだ。僕はどちらかといえば小供の時分には講釈が
すきで、東京中の講釈の寄席は大抵聞きに廻った」(『僕の昔

和良店とは「和良店亭」のことで、ここで漱石は三代目柳家小さんの至芸に
酔いしれていたということです^^。

寄席は正岡子規も好きで、この辺りを二人並んで歩いていたのかもしれません。

 

さてさて、再び神楽坂通に戻り、てくてく

いつの間にか早稲田通りへ~
そして、弁天町の交差点を左折して漱石公園を目指します!
ついに!到着か!?

この続きは明日へ~~~

*****

神楽坂通りを歩いていると!このような催しが行われていました(^^)/

問題を解きながらゴールを目指すようです。

参加したかったなぁー!

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陽射しがたっぷり♪良い一日でありますように!
本日もありがとうございました。(^-^)/

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